井上靖

洪水のように、 大きく、烈しく、 生きなくてもいい。 清水のように、あの岩蔭の、 人目につかぬ滴りのように、 清らかに、ひそやかに、自ら耀いて、 生きて貰いたい。 さくらの花のように、 万朶を飾らなくてもいい。 梅のように、 あの白い五枚の花弁のように、 香ぐわしく、きびしく、 まなこ見張り、 寒夜、なおひらくがいい。 壮大な天の曲、神の声は、 よし聞けなくとも、 風の音に、 あの木々をゆるがせ、 野をわたり、 村を二つに割るものの音に、 耳を傾けよ。 愛する人よ、 夢みなくてもいい。 去年のように、 また来年そうであるように、 この新しき春の陽の中に、 醒めてあれ。 白き石のおもてのように醒めてあれ。